歴史
日本における現代舞踊の歴史
20世紀の初期に外国より移入され、洋舞と呼ばれた現代舞踊は、1912年にイタリアのバレエマスターG.V.ローシーが帝国劇場(以下帝劇)に招かれて来日し、所属の歌劇部員にバレエを教えたことに始まる。当時ローシーの指導を 受けた石井漠は、1916年小山内薫・山田耕筰の新劇場に加わって初めて帝劇の舞台でおのれの創作による舞踊詩を発表した。これが契機で日本の洋舞界に創作的気分が醸成され、現代舞踊のきざしが芽生える。
当時の舞踊界と言えば、帝劇時代に同じくローシーの教えを受けた高田雅夫・せい子夫妻がいた。のちに大正末期になって岩村和雄が台頭し、またその頃外国で活躍していた伊藤道郎、小森敏らが、符節を合わせたように石井漠とおなじ傾向の舞踊詩的な作品創作を展開し、この国の舞踊界を支配する主流となった。その舞踊詩に新しい灯を点火したのが、ダルクローズの教えから出発しながら、さらにその芸術をイギリス・アメリカで磨きあげた国際人伊藤道郎である。彼は1931年に一度帰国して自身の舞踊を披露、日本の舞踊界に新たな刺激を投じたのち、再びアメリカへ帰っていった。
その後1933年にドイツから帰国した江口隆哉・宮操子夫妻によって、ヴィグマンゆずりのノイエ・タンツの舞台が紹介されるや、それまで見られなかった新鮮さと革新性によって、人々はおおきな衝撃を受けた。このノイエ・タンツの普及とともに、はっきりとバレエとの基本的な違いが認識されるようになったのである。しかしながら太平洋戦争の勃発は、せっかく発展途上に就いたこの国の洋舞界に種々の制約をもたらし、関係者は自由な活動を禁じられて、軍隊の慰問などでかろうじてその息を保っていた。
1945年太平洋戦争の終結とともに、舞踊運動も文化活動の一環を担って徐々に復興の道をたどるが、まだ当時現代舞踊はバレエや民俗舞踊ともども、洋舞というカテゴリーで一括されていたのが実情である。 だがアメリカ文化センター東京が1953年に設置されると、その事業の一端として彼らはモダン・ダンスの普及に力をそそぐ。その初期においては本国から派遣された多数の舞踊家による講習会や公演が企画され、日本の若い多くの舞踊家は、アメリカ文化センターをモダン・ダンスのメッカとしてこぞって参集。その指導を受けた結果、現代舞踊界の様相はたちまち一変して、技術的にも著しい発展を見るに至った。
また特筆すべきことは、1955年11月にマーサー・グラハム舞踊団の公演が初の来日を果たし、一週間にわたる舞台を披露するに及んで、今やアメリカのモダン・ ダンスがはっきりとこの国の現代舞踊界に定着する原動力となった。 つづいて1960年から64年頃までは、正統派(つま、ハンフリーとグラハムの系統)のモダン・ダンスのみならず、ミュージカルやショー・ダンスなど、いわゆるアメリカのパフォーミング・アーツが次々と紹介される時代となり、それまでノイエ・タンツの原点であるラバンとヴィグマンの流れの中にあった日本のモダン・ダンスに、非ヨーロッパ系の アメリカのダンスが主導権を握るに至った。こうしてフルブライト奨学制度を利用したアメリカへの遊学、あるいは個人的な留学に加えて文化庁の芸術家在外研修員制度も設けられることになり、数多くのこの国の若い舞踊家が欧米に渡って実技と理論を身につけた結果、いっきょに彼らのレベルは向上した。
さらに60年代末から70年に入ると、日本のモダン・ダンス独自の身体と風土に根ざしたいわゆる 舞踏派の運動が欧米人の注目するところとなる。
今では上記したそれまでの成果と相まって、日本人のモダン・ダンスも単なる外来芸術の受け売りから脱皮、みごと海外の舞踊界と並び立ち競合するに足るひとつの体系を形成するに至った。
その後、現代舞踊はその多様性を発揮し、それぞれに現代を映し出す舞踊の役割を担っている。日本人ならではの舞踊形式美が世界に進出していく時代となる。現代舞踊は間違いなく新しい時代を迎える。
(1999年春作成、2014年1月加筆)