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令和2年度 新人賞/新人振付賞 受賞者インタビュー

2021.01.30

2020年2月26日に政府からイベント自粛要請が発表されて以来、緊急事態宣言を経て9月まで、現代舞踊協会が予定していたすべての主催公演が中止になりました。「選抜新人舞踊公演2020(10月10日・11日、彩の国さいたま芸術劇場小ホール)」は、感染予防ガイドラインに沿った対策を厳密に実施し、ようやく開催できた令和2年度初の現代舞踊公演となりました。

このインタビューでは、「選抜新人舞踊公演2020」に出品し、新人賞/新人振付賞を受賞した2人の若き現代舞踊家が、コロナ禍でどのようにレッスンや創作活動を継続したのか、また受賞作を創作した背景・経緯などについてお話を聞き、舞踊家としてのパーソナリティを紹介していきます。厳しい状況のなかで困難に直面しながらも作品を創作・発表し受賞されたお二人から、希望や活力を感じとっていただければ幸いです。

 

<インタビュー その1>

選抜新人舞踊公演2020・新人賞 山之口理香子さん

聞き手) このたびはおめでとうございます。現代舞踊協会が1970年に制定した新人賞は、主に表現方法や舞踊技術を評価の対象としています。この50年間で78名が受賞していますが、作品「ぬけがらの声」で受賞された山之口理香子さん、まずは率直な感想を聞かせてください。

山之口)とても嬉しく光栄なことだと思いました。このような大変困難な状況のなかで素晴らしい賞をいただけたのは、3歳のころからご指導くださった高澤加代子先生や支えてくれた家族のおかげです。感謝の気持ちでいっぱいですね。

聞き手)初めて踊った作品など覚えてらっしゃいますか。

山之口)発表会で「おもちゃのマーチ」を踊りました。

聞き手)受賞作品「ぬけがらの声」は再演とうかがいましたが、初演はいつだったのでしょうか。

山之口)ヨコハマコンペティション(2019年11月:神奈川県立音楽堂)です。

聞き手)動きの間(ま)に説得力があり、ぐんぐん作品の世界に引き込まれていくのを感じました。どのような着想でこの作品がうまれたのでしょう。

山之口)私は生きているなかで、突然自分の存在自体に「不確かさ」のようなものを感じる瞬間があるんです。そのときに感じる不安や虚無、そしてそれを打ち消したい想いや自分の身体や心をあらためて大切にする行為のようなものを作品にしたいと思ったんです。

聞き手)とても哲学的な発想ですね。どのような点が大変でしたか。

山之口)作品全体の雰囲気が暗くなり過ぎないようにしたところでしょうか。

聞き手)作品発表の舞台となった「彩の国さいたま芸術劇場小ホール」は、初演時で踊られた一般的なプロセミアム型の舞台とは違った構造になっていました。踊ってみていかがでしたか。

山之口)さいたま芸術劇場小ホールは初めてでした。とてもおもしろく素敵な空間だなと思いました。天井が高くて舞台をぐるっと囲むように客席が配置されていたり、舞台の左右には階段、奥には大きな扉があるなど、とても新鮮でした。この劇場で再演する機会があれば、違った形で空間をいかすことを考えたいです。

聞き手)何度でも踊ってみたくなるような劇場ということでしょうか。客観的に自分というものを分析してみて、何か課題や手ごたえのようなものはありましたか。

山之口)コロナ禍の影響で1年ぶりの舞台だったので、舞台に乗ること自体が怖かったですね。こんなに長い期間、本番までの時間があいたことがなかったので、モチベーションを保つこともとても難しかったですね。ですから、「舞台で踊る感覚」を取り戻しながら本番を迎えることがまず課題としてありました。先がまったく見えないという特殊な経験をしたからこそ、どのような環境下に置かれても踊り続ける強い身体と心を保ち、舞台で力を発揮できるように誠意ある努力をし続けることが大事だと改めて実感しました。

聞き手)とても重く貴重な体験をされましたね。「的確なテクニックにうらづけされた表現力で独自の世界観を描いた成果に対して。」という受賞理由についてはどのような印象ですか。

山之口)表現したかったことをそのように評価していただき、とても嬉しいです。ふだんから、”作品に入り込んで踊る”ことを課題としていますから。

聞き手)2020年4月7日から5月25日までの非常事態宣言期間中、レッスンは継続できていましたか。

山之口)師事している高澤先生から『自由にスタジオを使いなさい』と言っていただき、日々練習に励むことができました。とても恵まれていたと思います。そのほか、自分の部屋にバーを取り付けて、自宅でも最低限のことはできるように環境を整えました。

聞き手)練習方法になにか変化はありましたか。

山之口)スタジオでのレッスンでは常に窓開け換気をして、指導者・生徒全員がマスクを着用しています。出入口には消毒液を設置して手指消毒、そして更衣室は3箇所に分散するようにしています。レッスン終了後は、毎回バーや床を除菌消毒し、空気清浄機等で空気中の除菌消毒にも心がけるようになりました。

聞き手)心境にも変化があったのではないでしょうか。

山之口)舞台で踊ることができることに、今まで以上に感謝の気持ちが溢れ出ました。ダンサーとして舞台に乗るということ自体、これまで思っていた以上に恵まれていて幸せなことなんですね。そして、私を支えてくださる方々の力がどれだけ大きいかを実感しました。

聞き手)今年は何か舞台の予定はありますか。

山之口)5月に赤レンガダンスアート、7月に現代舞踊展に出演を予定しています。

聞き手)なんとかコロナが収まり、ご活躍していただきたいと思います。今後はどのような作品を創作したり踊ったりしてみたいですか。

山之口)美術を駆使した作品ですね。

聞き手)将来なりたい舞踊家像を教えてください。

山之口)生きているなかで、感じ・考えていることを自分ならではの解釈で表現し発信していけるような舞踊家になりたいと思います。

聞き手)これから自分の作品を創作・発表しようと考えている人たちに伝えたいことはありますか。

山之口)まだまだ私も未熟で迷いながら創り踊っています。踊りを愛しながら、頑張っていきましょう!

聞き手)ありがとうございました。

 

 

<インタビュー その2>

選抜新人舞踊公演2020・新人振付賞 柴野由里香さん

聞き手)このたびはおめでとうございます。1982年に制定された新人振付賞(*1)は、主に振付、演出等を評価の対象としています。この38年間で35名が受賞していますが、作品「蟲」で受賞された柴野由里香さん、まずは率直な感想を聞かせてください。

*1)1982年秋~1999年:群舞賞、2000年~2006年:群舞振付賞、2007年より新人振付賞と名称変更。

柴野)素晴らしい賞をいただきありがとうございます。現在も第一線でご活躍されている多くの舞踊家の方々が受賞されている名誉ある賞をいただけるとは思っていませんでしたので、受賞通知を受け取ったときには大変驚きました。同時に日頃ご指導いただいている井上恵美子先生への感謝の気持ちでいっぱいです。

聞き手)初めて踊った作品を覚えていますか。

柴野)ピンクのチュチュを着てお花の妖精の役を踊りました。

聞き手)受賞作品「蟲」は再演とうかがいましたが、初演はいつだったのでしょうか。

柴野)DANCE夢洞楽2019(2019年8月:北沢タウンホール)です。

聞き手)三匹の虫がうごめく冒頭のシーンは印象的でしたね。最後はちょっと自然界の厳しさというか理不尽さも感じられました。どのような着想でこの作品がうまれたのでしょう。

柴野)江戸川乱歩原作の「蟲」という映画をたまたまみて、そのタイトルの漢字のイメージから小さな虫が群がっている様子を作品にしたいと思いつきました。新作のアイデアを練っていた時に、群舞を創作したことがなかったので、挑戦するつもりで…。ふだんから自然などの具体的なものを題材にして作品のテーマにすることが多いんです。

聞き手)他ジャンルの作品から着想を得たのですね。どのような点が大変でしたか。

柴野)虫の動きを舞踊化することはいくらでも思いついたのですが、人間よりも儚い、虫たちの命の切なさをどのように表現すれば良いか悩みました。

聞き手)作品発表の舞台となった「彩の国さいたま芸術劇場小ホール」は、初演時で踊られた舞台とは違った構造になっていました。踊ってみていかがでしたか。

柴野)1年前、いち観客としてこの小ホールの客席に座っていました。ちょうどその頃、「蟲」の初演が終わったばかりで、『もしこの舞台で「蟲」を踊る機会があるなら、舞台奥の扉を効果的に使えるな…』などと考えていたところだったんです。3匹の虫たちのうち2匹が扉の間をすり抜けて入っていき、扉が閉まって1匹だけ取り残される演出が効果的にできました。

聞き手)舞台機構を上手に活用したのですね。客観的に自分というものを分析してみて、何か課題や手ごたえのようなものはありましたか。

柴野)本番直前まで振りや髪型を変えたりして、他の作品と被るところがないよう注意を払いました。コミカルな動きのなかにも命の儚さを表現しきれただろうか?ということが今後の課題です。ただ、”いまの精一杯”は表現できたと思います。

聞き手)合同公演では、他の作品と演出など被らないようにしてオリジナリティを出すことはとても大切ですね。「巧みな構成で3人のダンサーを生かしコミカルでオリジナリティのある作品に仕上げた成果に対して。」という受賞理由についてはどのような印象ですか。

柴野)虫になりきって表現したことを、「コミカルでオリジナリティのある作品」と評価していただけたことは大変光栄です。個性の違う3人のダンサーのそれぞれの強みを生かせるように振付を考えました。出演してくれた山田愛子さん、藤本舞さんには私の至らないところをたくさんカバーしてもらい、とても感謝しています。

聞き手)2020年4月7日から5月25日までの非常事態宣言期間中、レッスンは継続できていましたか。

柴野)約2ヶ月間はレッスンができず、自宅待機でした。体を思いっきり動かせないことがとても辛かったですね。それぞれの生徒が自宅でも練習できるよう、師事している井上先生が自ら振付けた動画をSNSで送ってくださり、各自が自宅で練習した動画を一つの作品映像にまとめるなど、みんなに会えなくても繋がっているような気がして、レッスン再開を願いながら毎日を過ごしていました。

聞き手)練習方法になにか変化はありましたか。

柴野)人数の多いクラスで密にならないよう、午前と午後に時間割を分けました。マスク着用とこまめな消毒、換気も徹底するようになりました。

聞き手)心境にも変化があったのではないでしょうか。

柴野)以前に増して、舞台で踊れることに感謝する気持ちが強くなりました。私自身もコロナ禍で出演予定の公演がキャンセルになってしまい、ダンサー活動の休止を余儀なくされましたが、その代わり踊ることの楽しさ、舞台に立てる喜びを再確認できました。

聞き手)今年は何か舞台の予定はありますか。

柴野)「伊勢市クリエイターズ・ワーケーション」に参加します。伊勢市が新型コロナウイルス感染症による市内観光への影響に対応する事業の一つとして、観光消費の拡大と観光PR、さらには「ワーケーション」という新しい旅のかたちの模索を目的に、文化・芸術分野のクリエイターを公募のうえ招聘し、市内に宿泊をしながらそれぞれに創作活動に取り組む機会を提供するものです。1271名の中から選出いただき、伊勢市に約10日間滞在します。そこで創作活動やパフォーマンスをしながら、現代舞踊の魅力をたくさんの方に広めることができるよう活動していきたいです。

聞き手)舞台以外にも活動の場を広げられているのですね。今後はどのような作品を創作したり踊ったりしてみたいですか。

柴野)コロナの第三波で2回目の緊急事態宣言が出ていますから、劇場で踊ることはまだ少し難しいだろうと思います。当面は、野外のパブリックスペースや自然のなかで見ていただけるような作品を創りたいですね。

聞き手)将来なりたい舞踊家像を教えてください。

柴野)観客に感動を与え、心に残る作品を創り踊ることのできる舞踊家です。

聞き手)これから自分の作品を創作・発表しようと考えている人たちに伝えたいことはありますか。

柴野)まだまだ未熟なので、創作する過程で行き詰まった時は、先生や仲間や家族に考えを話しています。人と話すことによって自分の考えがまとまり、新しいアイデアが浮かんでくることもあります。作品は1人だけでできるものではなく、周りの人たちの支えがあって生まれていくものだと思います。私は5歳からダンスを続けていますが、良いことも苦しいこともたくさんありました。それでも一生懸命まじめに取り組んで続けていれば、今回の受賞のように良い結果をいただくことができるのだと感じています。いつまでも挑戦する気持ちは忘れずにいたいです!

聞き手)ありがとうございました。

 

 

今回の受賞が、お二人にとって益々のご活躍のきっかけになるよう願っています。

聞き手:川村 昇(事業部 選抜新人公演担当部長)

 

夏期舞踊大学講座2019

2019.10.25

一般社団法人現代舞踊協会 研究部企画
夏期舞踊大学講座2019
「日本の伝統芸能に学び、クリエイションの世界を探る」シリーズ2:日本舞踊‘男踊り’‘女踊り’、学んで深めるダンスの創造
講師 : 西川箕乃助、西川箕乃三郎

2019年8月30日(金)・31日(土)、西新宿の芸能花伝舎で開催され、受講者の2/3が浴衣着用で受講するという、これまでにない講座風景となりました。
稽古1~3は、初日の午前中に西川箕乃助氏から男踊りの『越後獅子』をひたすら習っている様子、稽古4は『藤娘』の一部を実演紹介下さる箕乃助講師です。

稽古1
稽古2
稽古3
稽古4

 

ポール・テイラーの死を悼む

2018.10.25

アメリカンモダンダンスの歴史の1ページを飾った巨匠がまた一人この世を去った。2018年8月29日、ポール・テイラーが88才の生涯を閉じた。訃報を聞いて、改めて、私が、いかにポール・テイラーという舞踊家から影響を受けたか、その存在の大きさを感じている。この偉大なアーティストとの出会いを心から感謝してやまない。

私が文化庁派遣芸術家在外研修員としてアメリカ、ニューヨークに滞在した80年代は、マーサ・グラハムやホセ・リモンといった、いわゆるアメリカのモダンダンス第一世代から、第二世代へ移行しつつある時代であり、今思えば、ヨーロッパのヌーベル・ダンス、コンテンポラリーダンスの流れが創られる一つの変革、そのスタイル、テクニックというよりも、むしろ、モダンダンスの意識の変革がなされていた時代だった。その真っただ中にいたのが、ポール・テイラーだった。今の日本の若い舞踊家にはあまり馴染みのある名前ではないかもしれないが、80〜90年代のニューヨークで、ポール・テイラーは,次々とセンセーショナルな作品を発表し続け、当時一番ホットなダンスカンパニーだった。

私がジュリアード在籍中、ジュリアード・ダンス・アンサンブルとして、リンカーン・センターの青少年向けのアートプログラムとしてニューヨーク市の学校廻りのツアーに参加し、また、学校公演の外部振付家の作品として、ポール・テイラーの作品に触れる機会を得た。「Esplanade」と、伝説的な作品「Aureole」(1962年初演)だった。女性3人と男性一人の作品で、パラレルのポジションで,八の字に身体を揺らし、前後に大きく手を振って、力強くリープしていく動きや、膝を曲げたままのパドブレなど、一見リリカルなバレエ的作品のように見えるが、実はなかなかシニカルな作品だ。初演では、男性ソロのパートをポール自身が踊ったのだが、当時、アダージオは、女性が踊るものがほとんどだった。彼は男性のソロを〈静と動〉の〈静〉の場面として置いたのは画期的だったと言われる。大きい身体だが、もの静かな、柔和な話し方をする人だった。

彼は、ジュリアードの先輩でもあるが、その前には 、シラキューズ大学で美術を専攻していたこともあり、空間構成などにもとてもこだわりがあり、空間の美的感覚、音楽性にも特徴がある。独得なユーモアと感性は、これまでのモダンダンスのものとは違って新鮮だった。彼特有の流れるような滑らかな動きと、大胆でスピード感のある動きを合わせ持つ、彼の代表作を踊れることは幸運だった。また、共に上演された作品「3 Epitaphs」(三つの碑文)は、シュールな作品で、ダンスの動きらしいものはあまりなく、背中を丸めて歩いたり、腕を振り回して跳ねたりするユーモラスな動きと、衣装のユニークさでは類を見ない。これが、かの現代美術家ロバート・ロシェンバーグのデザインした衣装というから、驚きだった。頭までかぶった黒い総タイツの頭や手には鏡のかけらが縫い付けられ、光に反射して光る。顔は目だけしか出ていない。奇妙な生物のようで、ポールの妄想から生まれたものだろうか。しかし彼は一度も私たちに作品の意味を説明することはなかった。ダンスは身体そのものが語ると信じていたからだろう。

彼は、シラキューズ大学の時代に、アメリカン・ダンス・フェスティバァルで、マーサ・グラハムと出会う。そして、ジュリアードに編入学しダンスを本格的に学んだ。ダンスを始めたのは、22才くらいというから、遅いスタートではあるが、ジュリアードに在籍しながら、マーサ・グラハムやマース・カニングハムのスタジオにも通い、後の自分自身のスタイルを創っていった。マース・カニングハムについては、その作風の、決してセンチメンタルにならないところ、貫いた信念を持った作品創りにおいて、彼をとても尊敬していたと言う。バッハの曲で、歩く、走る、床を滑る、転がるといった非ダンス的動きを大胆に取り込み、巧みな構成で、人間味ある、生きるエネルギーに溢れる作品に仕上げた「Esplanade」など、日常的な動きの中に、非日常的な情景を描き、社会や人間関係の機微を表現する、彼の芸術的な新しい視点は、今日のコンテンポラリーダンスの始まりだった。彼自身美術家でもあるが、アレックス・カッツや、ジェスパー・ジョーンズなど著名なアーティストとのコラボレーションも行った。

余談ではあるが、彼は、蝶や虫の採集が趣味で、当時、彼の別荘には、自作の額に入った蝶の標本が部屋中に飾られていたと聞いた。また、妄想のもうひとつの人格、仮想の友がいたというから、あのシュールな作品の数々が生まれたのも妙に納得できる。機知に富んだ、ドライなユーモアと詩情、優しさと強さ、光と闇を持ち合わせ、時に狂気さえ感じさせる彼の作品は魅力的で、心を揺さぶられる。そんなポール・テイラーの作品は、私をはじめ、多くの舞踊家を刺激し、影響を与えた。

敬愛する偉大な舞踊家を失ったことは、残念なことだが、彼のアーティストとしての純粋な、媚びない、強い精神から生まれた数々の作品は、多くの人たちに愛され、今も心に生き続けているにちがいない。心から冥福を祈る。(文:馬場ひかり)

"Aurole"ジュリアード・ダンス・アンサンブル(1981)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

"3 Epitaphs"ジュリアード・ダンス・アンサンブル(1981)

第35回江口隆哉賞受賞者 佐藤典子インタビュー

2018.09.07

舞踊生活70周年・第35回江口隆哉賞受賞を記念した舞踊公演「時を駆けて…次代へ」を静岡県磐田市で2日前に終えたばかりだという佐藤典子氏。1931年に生まれ、86歳をこえてもなお精力的に舞踊創作に邁進するばかりか、師である石井小浪(1905~1978)作品の紹介・再演・伝承などのアーカイブ化、さらには大前光市氏をはじめとする若い人材の発掘と育成にも尽力する。江口隆哉賞受賞式に駆け付けた大前氏とともに、踊りというものについて話を伺った。

山名:江口隆哉賞受賞おめでとうございます。総合的なプロデュース手腕、とくに大前さんのような若いダンサーを発掘し、ご自身の作品や公演に積極的に出演依頼をされて育成に成功されている点が高く評価されました。

佐藤:ありがとうございます。このような立派な賞からはもっとも遠くにいる存在だと思ってこれまでやってきましたので、受賞のお知らせをいただいたときはかなり驚きましたが、本当にありがたいことですね。私は15歳の時に東京で石井小浪先生に師事して頑張ってきたわけなんですが、じつは小浪先生が大のコンクール嫌いで、「踊りというものは人から点数をつけられるものではない」ということを常々おっしゃるもんだから、私もそれに感化されて、コンクール的なものには一切出たことがなかったんです。自分の踊りに点数をつけられたことがなかった経験があったから、大前君のような若いダンサーたちとうまくやっていけるのかもしれません。

大前:そうはいっても、変な作品を作ってもっていくと叱られちゃいますけどね。『あんたはいったい何がしたいのか!』って(笑)。

佐藤:じつは私も若いころ、小浪先生に叱られたことがありましてね。夫が化学者だったもんだからそれに影響されて、化学反応式に着想を得て作品を作ってみたんです。ポリエチレンが生成される過程を踊りにしてみたのね。斬新な音楽で奇抜な衣装を作って。とっても面白い作品に仕上がって、新聞にもでかでかと紹介されて大変な評判になったんですね。当時は25歳ぐらいの娘でしたから、得意になって小浪先生にみていただいたんです。ところが先生はこうおっしゃったんです。『どんなに斬新であっても、目新しいアイディアに富んでいても、作者の哲学が感じられないようなものは、私は芸術作品とは認めません。たしかにポリエチレンが生成される過程を踊りにしたお前の発想は面白い。だけど、それがお前の人生にとっていったい何になるというのか』。こうこっぴどく叱られたんですね。

大前:わかります!いまだったらよくわかります。なんちゃら道というか、そこに自分の道があるかどうかなんですよね。『もし、それで一生やっていくんだったらOK』みたいな。

佐藤:もちろん時代というものの影響もあると思うんですよ。昔はなんにも参考にするものがないから、自分ひとりで考えるしかないんだけれども、考えるための素材が少なかったんですね。今の子たちはインターネットで自由にいろんなものがみられますよね。その代わりみんな同じになっちゃう。いまの子たちはみんな似てますよね。昔の人は自分しかよりどころがないから、少ない素材でもって自分の言葉で考えるしかない。

大前:あ~。情報がないから考えるんだね。昔の先生はビデオもないから、本を見てこんな感じかな?みたいに真似をして、ちょっと間違ったりして(笑)

佐藤:踊りの目的はテクニックを見せることではなくて、心を見せることだからね。わたしの稽古場の生徒たちにも、踊りの心は受け渡していきたいなと思っています。

山名:ところで、さきほどからずいぶん仲が良さそうですけれども、佐藤先生と大前さんが出会ったきっかけを教えてください。

佐藤:10年ちょっと前に、あるダンスの発表会にこの子(大前氏)が出ていて衝撃を受けたのがきっかけでしたね。じつは私には娘が一人いて踊りをやっていたんですけれども、骨肉腫で左足を切断したんです。結局その2年後の23歳で亡くなっちゃったんだけれど、自分の娘とこの子が重なっちゃったんですね。もし娘が片足でも生きていたら、どんな踊りをしただろう、踊らないまでも、どんな人生を歩んだろうって。だから『「カナリヤ」という作品をつくるから、足をなくしたカナリヤの役(主役)をやってほしい。そのときには義足を外して踊ってほしい。始まりのシーンでは、足をなくして動けないさまを表現してほしい』とお願いしたんです。

大前:その当時、僕は普通のダンサーと同じように動くこと(義足だと気づかれずにいかに踊るか)ばかり考えていたので、佐藤先生の注文にはものすごく抵抗があったんです。でも、足がなくて不自由で、普通のダンサーのようにたくさん動けなくても、体の力を抜いてドラマチックな表現ができる、作品の一部になれるような気がして、そしてお客さんにも喜んでもらえるということに初めて気づいたんですね。さっき話したなんちゃら道ではないですが、僕の表現者としての道はこれだ!と思いました。ようやく自分が舞踊家として通用するものを見つけたと。それが自信につながって現在に至るわけですが(笑)。

佐藤:心の奥底にあるものを見つめ、見極めて、舞踊表現する 人間の身体を言葉として心を伝える。これが舞踊詩の世界です。日本の現代舞踊の創始者である石井 漠先生、石井小浪先生により完成されたこの舞踊詩は、世界に誇り得る日本人の舞踊なのです。小浪先生はよくこんなことをお話し下さいました。『技術がすべてではなく、目的(心)を伝える手法として技術が必要なのだよ。だからといってテクニックは二の次で良いというわけでは決してない。なぜならば、例えばどんなにすばらしい作曲があっても弾きこなす腕がなくては音楽にならないからね…。』

まだまだお話は尽きることなく滾々と湧き出る泉のように溢れていましたが、夜も更けてまいりましたのでこのへんでお開きにすることにしましょう。佐藤典子先生、大前光市さん、素敵なお話をどうもありがとうございました。
2018年5月29日(火)ホテルグランドアーク半蔵門にて
聞き手:山名たみえ(一般社団法人現代舞踊協会 情報センター部長)

 

まるで親子のような…という表現では言い表せない強い結びつきを感じるおふたり 佐藤典子氏(左)大前光市氏(右)