日本現代舞踊略史

2014.01.22

日本のエコロジカルな現代舞踊への期待

山野博大(舞踊評論家)

日本の現代舞踊の誕生

日本の現代舞踊は、帝劇歌劇部一期生の石井漠が、バレエの教師としてロンドンから来日していたG・V・ローシーに反抗し、暴力行為に及んだ(石井漠は殴るまねをしただけと言っているが…)ことがきっかけとなって誕生した。

石井漠は1911(明治44)年3月1日に開場した日本初の全席椅子(4階、定員1,702名)の洋式劇場である帝国劇場の歌劇部の部員として採用された。石井漠の他に、沢モリノ、小森敏、高田せい子、石井行康、高田雅夫ら、後に舞踊家として名を成した人たちの名前も見える。彼らはローシーからクラシック・バレエの基本を教わった。ローシーの日本人を人種的に見下すような態度に、ふだんからがまんがならなかった石井漠は、不当な配役の扱いを受けたことで切れてしまったのだ。

帝劇追放処分となった石井漠は、三菱財閥の後援でベルリン王立高等音楽院に留学し1914(大正3)年に帰国して、日本最初の交響楽団を作りつつあった山田耕筰のところへ転がり込んだ。彼は山田から、西欧における新しい舞台芸術の動向について聞かされていたのだ。

イサドラ・ダンカンがバレエの束縛から自由になって踊ろうとしていること、ディアギレフの率いるロシア・バレエ団が新しい音楽を使ってダイナミックな技を見せていること、スイスの音楽教育家エミール・ジャック・ダルクローズが、身体運動によって音楽のリズムを教育する「ユーリズミックス」を考案し、実践していることなどを山田から聞いて、石井は「我々の舞踊芸術は肉体の運動による詩でなければならない」という考えに達し「舞踊詩」の創造を目指した。

1913(大正2)年にロシアのモスクワ芸術座を見て刺激をうけ、日本に新しい演劇を興すことを考えた小山内薫が主宰する「新劇場」が、1916(大正5)年6月、帝劇で第1回公演を行った。そこで石井漠は、記念すべき日本最初の現代舞踊『日記の一頁』を上演する機会を得た。それは山田耕筰の作曲で「憧憬の世界を超え、法悦の座に達する」心境を描いたソロ作品だった。

日本の現代舞踊の大衆化、国際化

バレエなどと同様に日本の現代舞踊は、外国からの輸入品と考えられがちだ。しかし当時の石井は、そもそも真似る対象である外国の舞踊を見る手段を持っていなかった。当時、映画はまだ初歩的な技術水準にあり、海外の舞踊を映したものを見ることはできなかった。彼は、ローシーから教えられたバレエの初歩、山田耕筰が向こうで身につけてきた「ユーリズミックス」、身近にあった日本舞踊の技術などを材料に、舞踊詩『日記の一頁』を一から創造するしかなかったのだ。1895(明治28)年にシカゴでデビューしたイサドラ・ダンカンから、約20年遅れのスタートだった。

帝劇歌劇部(後に洋劇部と改称)は1916(大正5)年に解散となった。お金をかけた割には、目立った成果があげられなかったからだ。部員たちの多くは「浅草オペラ」に参加する道を選んだ。洋風の歌と踊りは、上流階級の集う帝劇から大衆が群がる浅草劇場街へと広まった。石井漠、沢モリノ、小森敏、高田雅夫、高田せい子らも何らかの形で「浅草オペラ」の渦中にあった。しかしそこは彼らが目指した舞踊芸術とは似て非なる、興行成績優先の世界だった。彼らは相次いで洋舞発祥の地であるヨーロッパ、アメリカへと旅立った。

1918(大正7)年に小森敏がアメリカへ、1922(大正11)年には高田雅夫と高田せい子が結婚してアメリカ、ヨーロッパへ、石井漠も義理の妹の石井小浪を伴ってヨーロッパを目指した。それより早く、歌手志望だった伊藤道郎は1912(大正1)年にベルリンへと旅立ち、舞踊に転向し、イギリス、アメリカに大きな足跡を残した。

1920(大正9)年に照明の勉強のためにニューヨークへ渡った岩村和雄は、ダルクローズ、サカロフ夫妻の教えを受けて1922(大正11)年に帰国し、その門下から、山田五郎、ユリス美共らを生んだ。高田門下の江口隆哉と宮操子は、1931(昭和6)年、結婚してドイツに渡り、マリー・ヴィグマンの舞踊学校で学び、1933(昭和8)年、ベルリンのバッハザールでリサイタルを行い『手術室』『懊悩より悟道へ』等を発表するという、画期的な成果をあげて帰国した。邦正美、津田信敏、檜健次らもそれぞれの方法で海外の舞踊文化との接点を求めた。

彼らは海外の舞踊に接し、日本発の現代舞踊との違いを身にしみて感じたに違いない。彼らの多くは「自分の踊りは向うでも通用する」という手応えを得て帰国している。その経験をもとに、自身の日本的な特質を再構築して、それぞれに新しい舞踊の世界を切り開いた。

日本の現代舞踊の特色

日本の現代舞踊は、日本舞踊のお稽古ごとのやり方をまねて後進の育成を行ったので、その師弟関係も受け継ぐことになった。教える側と教わる側の人間的な関わりぐあいが、西欧のダンス・スタジオと比較すると、格段に人間臭い。当時の弟子たちには、他派の舞踊の舞台を見ただけで師弟関係を断たれる、いわゆる破門が待っていた。そういう不自由さは、今の人たちにとっては想像もできないことだろう。しかしその師弟関係がうまく作用した場合には、人から人へと継承することで磨き上げられた至芸が生まれてくる。

日本の現代舞踊が、日本舞踊から引き継いだものがもうひとつあった。それは自然の風物を舞踊の題材に使うことだ。日本の文学、絵画などが「花鳥風月」に大きな役割を担わせていることは誰の目にも明らかだ。日本舞踊も、自然の描写なしにははじまらない。日本の現代舞踊は、そのエコロジカルなものとの関わりぐあいを、石井漠以来ずっと引き継いできた。

第二次世界大戦の戦禍から立ち直りつつあった1954(昭和29)年、マーサ・グラーム舞踊団が来日し、その主要作品すべてを日本の観客に披露した。グラームは東洋の文化への関心が高く、イサム・ノグチの舞台美術を使うことも多かった。その作品は日本人の心にじかに響いた。グラームの影響は大きく、現代舞踊のスタジオの多くがグラーム流を採用し、それまで培ってきた日本の現代舞踊のすべてを捨て去ってしまいかねない勢いだった。

戦争に負けたことでそれまでの「日本」を否定する傾向が強く、戦前から続いていた日本的な師弟関係を窮屈なもの、非民主的な陋習と感じていた戦後の若者たちは、アメリカン・スタイルのモダンダンスの自由な雰囲気を歓迎した。

1960~70年代、戦前からの影響がだんだん薄れると同時に、海外から大量の情報が流れ込んできた。現代舞踊の第二世代たちは、それまでになかったいろいろなことに挑戦して独自性を際立たせた。

日本の現代舞踊の新しい展開

1970(昭和45)年3月、渋谷の岸体育館で《エクスパンデッド・アート・フェスティバル》が行われた。厚木凡人らによって巨大な体育館の空間で繰り広げられたこのイベントは、日本に新しい舞踊芸術の可能性を拓くきっかけとなった。また1975年12月、《モダン・ダンス&ポスト・モダン・ダンス》公演が行われた。この公演には、トリシャ・ブラウン、シモーヌ・フォルティ、デイヴィッド・ゴードンらのポスト・モダンの旗手たちが勢ぞろいし、日本の舞踊界に舞踊の新しい可能性を強力にアピールした。

このあたりで、日本の舞踊は基本のところが大きく変った。ダンサーの高い技術を駆使して、何ものかを表現することを目的として成り立ってきたそれまでの舞踊とまったく違う、別の舞踊が現われた。それは、内容を表現することを目的としない、プロセス重視の「舞踊」だった。当初はこの変化に大きな違和感を持つ舞踊家も多かったが、今となってみれば、日本で舞踊の創作にたずさわる多くの者が、何のこだわりもなくこの考え方を受け入れるようになっている。

21世紀の日本の現代舞踊シーンには、戦前からの技術を駆使して自然にぴったりと寄り添って見せるかと思うと、世界のさまざまな先端技術を自由に取り入れて、ダイナミックな動きの世界を作り上げることにもまったく抵抗を感じない、第三世代の個性派たちがずらりと並ぶ。日本の現代舞踊は、海外の動向に敏感だが、向こうのものをそのまま取り入れるということはせず、いつの間にか「日本化」してしまう。「日本化」は今も着実に進行中だ。