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ダンス・アーカイヴ in JAPAN 2014 評論集

2014.11.28

■洋舞100年の時を越えて 日本人の心 発展の底流に お茶の水女子大名誉教授 片岡康子 (東京新聞)

日本の洋舞には百年を超える歴史がある。洋舞、すなわち西洋舞踊の二大潮流はバレエと現代舞踊と言えるが、その洋舞の原点はどこにあるのだろうか。

明治政府による近代化・西洋化が進んでいた1911年3月、帝国劇場が開場した。それにともなって12年に招聘されたバレエ教師G・Vローシーにバレエの手ほどきを受けた帝劇一期生石井漠、小森敏と二期生高田雅夫、高田せい子(後に一期生に編入)、彼らの直系の弟子たち(江口隆哉、宮操子)、帝劇出演後12年にいち早く渡欧した伊藤道郎らが主に洋舞の草創期を築きあげたからである。

しかし、ローシーにバレエの手ほどきを受けた帝劇生をはじめ、草創期のパイオニアたちはバレエの道には進まなかった。彼らは「舞踊とは何か」、「創作とは何か」、「何をいかに表現するべきか」と問いかける創作舞踊の道に進んだ。早々と欧米に渡って新芸術の渦中に身を投じ、影響を受けながらも模倣に陥らずに、自己の信じるところを臆することなく作品にしている。

伊藤の《ピチカット》(1916年、ニューヨーク初演=以下同)、石井《囚われたる人》(23年、ベルリン)、執行正俊《恐怖の踊り》(32年、同)、江口《手術室》(23年、同)、宮《タンゴ》(33年、同)、檜健次《枯蘆》(36年、ニューヨーク)など挙げることができる。その気概たるやあっぱれであり、またいずれもが好評を博していることに驚きを覚える。

とはいえ洋舞の道に困難がなかったわけではない。ローシーにバレエの手ほどきを受けた当時の日本人はまだ和服を着て畳に座り、下駄や草履を履いて生活をしていた。膝を伸ばし、足を180度回転するなど困難の一語に尽きた。ゆえに技巧に走らず、今あるがままの自分の身体と向き合い、西洋風の音楽、衣裳、照明などの技法を学び、日本人の心の表現を目指して独自の創作舞踊を生みだすことができたのであろう。

近年、洋舞百年の節目を迎えたこともあって、今月6~8日、「ダンス・アーカイブinJAPAN」(新国立劇場)が開催された。石井《食欲をそそる》(1925年)、高田せい子《母》(38年)、江口《日本の太鼓》(51年)をはじめとする名作が時を越えて再現され、当時の瑞々しい感性と底流にある日本人のDNAを深く感じとる舞台が繰り広げられた。新しい舞踊形式を打ち出した草創期の舞踊家たちの英知に学ぶ思いがしたのは私だけではないであろう。来年3月には第二弾が開催される。

創作舞踊から始まった日本の洋舞は、戦前は創作性を本質とするモダンダンスを中心に発展し、第二次大戦後はバレエが盛んになり、60年代には近代芸術への異議申し立てによる舞踏が誕生して、80年代以降は多様なコンテンポラリーダンスが花開いた。いまや世界で活躍する日本人ダンサー、振付師の数は遥かに多くなっている。盛況を呈する洋舞界であるが、今後のさらなる発展のためには、特に国立の現代舞踊団や養成機関および助成事業の充実が期待される。伝統と創造のベクトルがバランスよく機能した舞踊芸術の発展を願う。


■ダンス・アーカイヴinJAPAN 舞踊評論家 原田広美(公明新聞)

洋舞のルーツを見つめ、未来へ扉開く日本の洋舞100年を振り返り、過去の作品の復元と、「今」を代表する若手作品を上演する「ダンス・アーカイヴin JAPAN」第1弾を「新国立劇場」主催、一般社団法人「現代舞踊協会」制作協力の下、6月6~8日に東京・初台の「新国立劇場・中劇場」で開催する。(第2弾は来年3月)。

日本の洋舞は、明治44年建立の帝劇で、イタリア人教師ローシーがバレエを教授するも、容易には根付かず、石井漠が独自に始めた現代舞踊が、戦後まで時代をリードした。石井は、大正時代に義理の妹・小浪を伴い、欧米でも興業。一方、ローシーに学んだ高田正雄・せい子も、「浅草オペラ」で活躍後、欧米で巡業と舞踊研究を重ねて帰国。高田に学んだ江口隆哉・宮操子は、戦前に於米。ドイツ表現主義舞踊を持ち帰り、創作・教育に力を注いだ。

また小森敏は、帝劇を経た後、戦前に欧州のオペラ座で活躍。檜健次も日本の身体性を融合し、米国で興業と教授。そして伊藤道郎は、ロンドンで詩人イェーツと能を研究して「鷹の井戸」を創作後、渡米して活躍。戦後は「アニー・パイル劇場」の総監督も努めた。

今回の「ダンス・アーカイブ」は、第一部が「ゴジラ」の作曲者・伊福部昭の曲で、江口による振付「日本の太鼓」で開幕。第二部が「ピチカット」(振付=伊藤)、「食欲をそそる」「白い手袋」(同=石井)、「母」(同=高田せい子)、「BANBAN」(同=檜)、「タンゴ三題」(同=伊藤・小森・宮)。パイオニアたちの作品の出演者が指導し、若手の舞踊家たちが踊る。

第三部は、コンテンポラリー・ダンスの平山素子の「春の祭典」。相手役は、大貫勇輔。日本の洋舞のルーツを見つめ、未来への扉を開く貴重な催しである。



■ダンス・アーカイヴ in JAPAN -未来への扉- 舞踊評論家 長谷川 六(音楽舞踊新聞)

非常に心躍る企画だ。かねてから幻の舞踊家、宮操子の『タンゴ』(初演1933年)を見るのを渇望していたが長身だったという宮の体型に近い、また性格的にも時代を経て大胆にして多大の冒険心を持つ中村恩恵が躍ったのは、アーカイヴの理念に沿っている。

中村恩恵の舞踊技術と宮操子のそれには隔たりがあったことと思う。時代を経てさらに複雑な現代を反映する中村恩恵の『タンゴ』がそこにあった。共通するのは路へのあくなき関心で、中村恩恵はオランダで働き、宮操子はドイツで近代ダンスを学び『タンゴ』を昭和8年に初演したわけだ。その時代女性の置かれた立場を考えると、宮操子には狂気のような革新性があたに違いないと思わずにはいられない。宮操子の伝記熱筆を『ダンスカフェ』に依頼され、渥見利奈氏の尽力で資料を集めていたが(ダンスワーク65号に収録)、資料を読み解くと、炭鉱を所有する裕福な家庭に育った女性がドレスデンのヴィグマンのダンス学校で数か月学んだだけのもので、有楽町で開いた学校には長蛇の列ができたと記されている。そこには、宮操子の資質、ジェンダーへの戦いの姿勢がある。

『タンゴ』にはそれを読みとることのできる内容がある。筆者は、宮操子の舞台は『手術室』を小学生時代に見たのみだが、それでもいくつかのしぐさやシーンを覚えているということは、この女性の個性の強さがわかる。

中村恩恵はそこまで踊りつくした白眉の舞台だった。

小森敏は、パリで非常な評判を得たダンサー、藤井公・利子の師である。彼の『タンゴ』孫弟子の柳下規夫が踊った。再現指導は藤井利子。これはまた歓喜に包まれたすぐれたものだった。柳下規夫のダンサーとしての資質の高さもあるが、おそらくはパリの観客の目に受容された小森の独自の美学が見えるからだろう。毅然としたエロスのある踊りだった。

このアーカイヴは、江口隆哉の『日本の太鼓』(初演1951年)で始まった。岩手県の郷土芸能『鹿踊り』を素材にしたもので、鹿の面をつけ太鼓を持った8人で踊る。劇場の奥行を計算しつくした見事な隊列移動がみせ場(再現指導:金井芙三枝)。音楽は伊福部昭の曲のうえに出演者が演奏する太鼓が加わる。

ここで思うのは、現代人のポジションが高くなったということで、神楽や能などに見る腰を折って立つ強靭な筋力が弱くなったことがわかる。また、太鼓の入れ方が平板で、この作品をモスクワで1957年に見たときと何か違う気がする。あの公演の観客のどよめきは、太鼓のリズム、そして腰を折り続けるという異文化にも与えられたと思う。彼らがバレエのポジションをとり、リズムにのったら扮装だけで目立っただろう。

妻木律子が踊った伊藤道郎の『ビチカット』(再現指導:井村恭子)は背景に大きな影をおとし、10のジェスチャーをみせるもの。拡大と重複という装置は驚かせるのに十分。

石井獏は『食欲をそそる』と『白い手袋』(再現指導:石井かほる、石井登)が再現された。いずれも生徒たちに振付けられた作品である。思いがけない着想が驚きをもたらすものだが、石井漠といえば彼のソロを求めてしまう。やはり、あの彼の独特な身体能力は偉大。

この公演は企画を企画運営委員会、委員会代表:正田千鶴、委員:片岡康子、加藤みや子、妻木律子、波場千恵子、池田恵巳が行い、新国立劇場の政策上演となったものである。

2015年には同じく新国立劇場で第二回目が開催予定で、今回の上演者以外に石井みどり、執行正俊の作品の上演も予定されている。継続も含めてすぐれたアーカイヴの企画であり、これらの初演当時から現在までの文化の進展振り返る契機となる。新国立劇場慣れではの企画といえよう。
*「ダンス・アーカイヴin JAPAN」は、日本の洋舞百年を振り返り、過去の作品の復元上演と共に、「今」を代表する若手作品を組み合わせて上演する企画の第一弾。


■100年の蓄積示す 舞踊評論家 貫成人(読売新聞)

あまり知られていない事実だが日本は、ドイツ・アメリカとならび、20世紀初頭、独自のモダンダンスを生んだ三つの国の一つである。今回の試みは、100年に及ぶその蓄積を示した。

日本モダンダンスの始祖石井漠「食欲をそそる」(1952年)、「白い手袋」(39年)は太鼓の伴奏で、口の前で両手を左右に振る、大の字でジャンプするなど、コミカルな作品。英米で活躍した伊藤道郎「ピチカット」(16年)は、脚を大きく開いたまま素早く切り替えるポーズが背後の壁に大きな影をつくる。

極度に緩慢な店舗でタンゴの典型的ポーズが続「タンゴ」(27年)は、挙げた片脚をしっかり支える強靭な腰が独特だ。

宮操子「タンゴ」(33年)ではそれを演じた中村恩恵が華をみせ、小森敏「タンゴ」(36年)は小粋な作品。高田せい子「母」(36年)はやさしい動きの末に、真っ直ぐ天を指す片腕が力強い。

ドイツ舞踊に日本的踊りを織り交ぜた戦前に対し、戦後は土着志向が目立つ。江口隆哉「日本の太鼓」(51年)は映画「ゴジラ」主題曲で知られる伊福部昭の曲とともに、岩手鹿踊りの所作を協力なダンスに変貌させた。

檜健次「BANBAN](50年)は、抜き足差し足の動きとお囃子風曲がかわいらしい。

平山素子と柳本雅寛「春の祭典」(2008年)は、2台のピアノによる男女デュオ。多様な技法を自家薬籠中のものにし、時の成熟を感じさせた。

100年の時を示す、国立の劇場にふさわしい企画だった。同じくわが国独自の舞踏やコンテンポラリーダンスについても、同様の回顧企画が望まれるところだ。