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ポール・テイラーの死を悼む

2018.10.25

アメリカンモダンダンスの歴史の1ページを飾った巨匠がまた一人この世を去った。2018年8月29日、ポール・テイラーが88才の生涯を閉じた。訃報を聞いて、改めて、私が、いかにポール・テイラーという舞踊家から影響を受けたか、その存在の大きさを感じている。この偉大なアーティストとの出会いを心から感謝してやまない。

私が文化庁派遣芸術家在外研修員としてアメリカ、ニューヨークに滞在した80年代は、マーサ・グラハムやホセ・リモンといった、いわゆるアメリカのモダンダンス第一世代から、第二世代へ移行しつつある時代であり、今思えば、ヨーロッパのヌーベル・ダンス、コンテンポラリーダンスの流れが創られる一つの変革、そのスタイル、テクニックというよりも、むしろ、モダンダンスの意識の変革がなされていた時代だった。その真っただ中にいたのが、ポール・テイラーだった。今の日本の若い舞踊家にはあまり馴染みのある名前ではないかもしれないが、80〜90年代のニューヨークで、ポール・テイラーは,次々とセンセーショナルな作品を発表し続け、当時一番ホットなダンスカンパニーだった。

私がジュリアード在籍中、ジュリアード・ダンス・アンサンブルとして、リンカーン・センターの青少年向けのアートプログラムとしてニューヨーク市の学校廻りのツアーに参加し、また、学校公演の外部振付家の作品として、ポール・テイラーの作品に触れる機会を得た。「Esplanade」と、伝説的な作品「Aureole」(1962年初演)だった。女性3人と男性一人の作品で、パラレルのポジションで,八の字に身体を揺らし、前後に大きく手を振って、力強くリープしていく動きや、膝を曲げたままのパドブレなど、一見リリカルなバレエ的作品のように見えるが、実はなかなかシニカルな作品だ。初演では、男性ソロのパートをポール自身が踊ったのだが、当時、アダージオは、女性が踊るものがほとんどだった。彼は男性のソロを〈静と動〉の〈静〉の場面として置いたのは画期的だったと言われる。大きい身体だが、もの静かな、柔和な話し方をする人だった。

彼は、ジュリアードの先輩でもあるが、その前には 、シラキューズ大学で美術を専攻していたこともあり、空間構成などにもとてもこだわりがあり、空間の美的感覚、音楽性にも特徴がある。独得なユーモアと感性は、これまでのモダンダンスのものとは違って新鮮だった。彼特有の流れるような滑らかな動きと、大胆でスピード感のある動きを合わせ持つ、彼の代表作を踊れることは幸運だった。また、共に上演された作品「3 Epitaphs」(三つの碑文)は、シュールな作品で、ダンスの動きらしいものはあまりなく、背中を丸めて歩いたり、腕を振り回して跳ねたりするユーモラスな動きと、衣装のユニークさでは類を見ない。これが、かの現代美術家ロバート・ロシェンバーグのデザインした衣装というから、驚きだった。頭までかぶった黒い総タイツの頭や手には鏡のかけらが縫い付けられ、光に反射して光る。顔は目だけしか出ていない。奇妙な生物のようで、ポールの妄想から生まれたものだろうか。しかし彼は一度も私たちに作品の意味を説明することはなかった。ダンスは身体そのものが語ると信じていたからだろう。

彼は、シラキューズ大学の時代に、アメリカン・ダンス・フェスティバァルで、マーサ・グラハムと出会う。そして、ジュリアードに編入学しダンスを本格的に学んだ。ダンスを始めたのは、22才くらいというから、遅いスタートではあるが、ジュリアードに在籍しながら、マーサ・グラハムやマース・カニングハムのスタジオにも通い、後の自分自身のスタイルを創っていった。マース・カニングハムについては、その作風の、決してセンチメンタルにならないところ、貫いた信念を持った作品創りにおいて、彼をとても尊敬していたと言う。バッハの曲で、歩く、走る、床を滑る、転がるといった非ダンス的動きを大胆に取り込み、巧みな構成で、人間味ある、生きるエネルギーに溢れる作品に仕上げた「Esplanade」など、日常的な動きの中に、非日常的な情景を描き、社会や人間関係の機微を表現する、彼の芸術的な新しい視点は、今日のコンテンポラリーダンスの始まりだった。彼自身美術家でもあるが、アレックス・カッツや、ジェスパー・ジョーンズなど著名なアーティストとのコラボレーションも行った。

余談ではあるが、彼は、蝶や虫の採集が趣味で、当時、彼の別荘には、自作の額に入った蝶の標本が部屋中に飾られていたと聞いた。また、妄想のもうひとつの人格、仮想の友がいたというから、あのシュールな作品の数々が生まれたのも妙に納得できる。機知に富んだ、ドライなユーモアと詩情、優しさと強さ、光と闇を持ち合わせ、時に狂気さえ感じさせる彼の作品は魅力的で、心を揺さぶられる。そんなポール・テイラーの作品は、私をはじめ、多くの舞踊家を刺激し、影響を与えた。

敬愛する偉大な舞踊家を失ったことは、残念なことだが、彼のアーティストとしての純粋な、媚びない、強い精神から生まれた数々の作品は、多くの人たちに愛され、今も心に生き続けているにちがいない。心から冥福を祈る。(文:馬場ひかり)

"Aurole"ジュリアード・ダンス・アンサンブル(1981)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

"3 Epitaphs"ジュリアード・ダンス・アンサンブル(1981)

第35回江口隆哉賞受賞者 佐藤典子インタビュー

2018.09.07

舞踊生活70周年・第35回江口隆哉賞受賞を記念した舞踊公演「時を駆けて…次代へ」を静岡県磐田市で2日前に終えたばかりだという佐藤典子氏。1931年に生まれ、86歳をこえてもなお精力的に舞踊創作に邁進するばかりか、師である石井小浪(1905~1978)作品の紹介・再演・伝承などのアーカイブ化、さらには大前光市氏をはじめとする若い人材の発掘と育成にも尽力する。江口隆哉賞受賞式に駆け付けた大前氏とともに、踊りというものについて話を伺った。

山名:江口隆哉賞受賞おめでとうございます。総合的なプロデュース手腕、とくに大前さんのような若いダンサーを発掘し、ご自身の作品や公演に積極的に出演依頼をされて育成に成功されている点が高く評価されました。

佐藤:ありがとうございます。このような立派な賞からはもっとも遠くにいる存在だと思ってこれまでやってきましたので、受賞のお知らせをいただいたときはかなり驚きましたが、本当にありがたいことですね。私は15歳の時に東京で石井小浪先生に師事して頑張ってきたわけなんですが、じつは小浪先生が大のコンクール嫌いで、「踊りというものは人から点数をつけられるものではない」ということを常々おっしゃるもんだから、私もそれに感化されて、コンクール的なものには一切出たことがなかったんです。自分の踊りに点数をつけられたことがなかった経験があったから、大前君のような若いダンサーたちとうまくやっていけるのかもしれません。

大前:そうはいっても、変な作品を作ってもっていくと叱られちゃいますけどね。『あんたはいったい何がしたいのか!』って(笑)。

佐藤:じつは私も若いころ、小浪先生に叱られたことがありましてね。夫が化学者だったもんだからそれに影響されて、化学反応式に着想を得て作品を作ってみたんです。ポリエチレンが生成される過程を踊りにしてみたのね。斬新な音楽で奇抜な衣装を作って。とっても面白い作品に仕上がって、新聞にもでかでかと紹介されて大変な評判になったんですね。当時は25歳ぐらいの娘でしたから、得意になって小浪先生にみていただいたんです。ところが先生はこうおっしゃったんです。『どんなに斬新であっても、目新しいアイディアに富んでいても、作者の哲学が感じられないようなものは、私は芸術作品とは認めません。たしかにポリエチレンが生成される過程を踊りにしたお前の発想は面白い。だけど、それがお前の人生にとっていったい何になるというのか』。こうこっぴどく叱られたんですね。

大前:わかります!いまだったらよくわかります。なんちゃら道というか、そこに自分の道があるかどうかなんですよね。『もし、それで一生やっていくんだったらOK』みたいな。

佐藤:もちろん時代というものの影響もあると思うんですよ。昔はなんにも参考にするものがないから、自分ひとりで考えるしかないんだけれども、考えるための素材が少なかったんですね。今の子たちはインターネットで自由にいろんなものがみられますよね。その代わりみんな同じになっちゃう。いまの子たちはみんな似てますよね。昔の人は自分しかよりどころがないから、少ない素材でもって自分の言葉で考えるしかない。

大前:あ~。情報がないから考えるんだね。昔の先生はビデオもないから、本を見てこんな感じかな?みたいに真似をして、ちょっと間違ったりして(笑)

佐藤:踊りの目的はテクニックを見せることではなくて、心を見せることだからね。わたしの稽古場の生徒たちにも、踊りの心は受け渡していきたいなと思っています。

山名:ところで、さきほどからずいぶん仲が良さそうですけれども、佐藤先生と大前さんが出会ったきっかけを教えてください。

佐藤:10年ちょっと前に、あるダンスの発表会にこの子(大前氏)が出ていて衝撃を受けたのがきっかけでしたね。じつは私には娘が一人いて踊りをやっていたんですけれども、骨肉腫で左足を切断したんです。結局その2年後の23歳で亡くなっちゃったんだけれど、自分の娘とこの子が重なっちゃったんですね。もし娘が片足でも生きていたら、どんな踊りをしただろう、踊らないまでも、どんな人生を歩んだろうって。だから『「カナリヤ」という作品をつくるから、足をなくしたカナリヤの役(主役)をやってほしい。そのときには義足を外して踊ってほしい。始まりのシーンでは、足をなくして動けないさまを表現してほしい』とお願いしたんです。

大前:その当時、僕は普通のダンサーと同じように動くこと(義足だと気づかれずにいかに踊るか)ばかり考えていたので、佐藤先生の注文にはものすごく抵抗があったんです。でも、足がなくて不自由で、普通のダンサーのようにたくさん動けなくても、体の力を抜いてドラマチックな表現ができる、作品の一部になれるような気がして、そしてお客さんにも喜んでもらえるということに初めて気づいたんですね。さっき話したなんちゃら道ではないですが、僕の表現者としての道はこれだ!と思いました。ようやく自分が舞踊家として通用するものを見つけたと。それが自信につながって現在に至るわけですが(笑)。

佐藤:心の奥底にあるものを見つめ、見極めて、舞踊表現する 人間の身体を言葉として心を伝える。これが舞踊詩の世界です。日本の現代舞踊の創始者である石井 漠先生、石井小浪先生により完成されたこの舞踊詩は、世界に誇り得る日本人の舞踊なのです。小浪先生はよくこんなことをお話し下さいました。『技術がすべてではなく、目的(心)を伝える手法として技術が必要なのだよ。だからといってテクニックは二の次で良いというわけでは決してない。なぜならば、例えばどんなにすばらしい作曲があっても弾きこなす腕がなくては音楽にならないからね…。』

まだまだお話は尽きることなく滾々と湧き出る泉のように溢れていましたが、夜も更けてまいりましたのでこのへんでお開きにすることにしましょう。佐藤典子先生、大前光市さん、素敵なお話をどうもありがとうございました。
2018年5月29日(火)ホテルグランドアーク半蔵門にて
聞き手:山名たみえ(一般社団法人現代舞踊協会 情報センター部長)

 

まるで親子のような…という表現では言い表せない強い結びつきを感じるおふたり 佐藤典子氏(左)大前光市氏(右)